リアルに「充足」したものへ
物理的距離のない世界で、物理的距離に縛られている。例えば、「インターネットを使えば外国人と友達になれるからインターネットはすばらしい」という台詞は、だ。
23 名前: モデル(コネチカット州)
「本当は起きてたりしてw」
「キャハハ」
様々な言葉が書き込まれる中で上記23が「優勝」「お前がナンバーワンだ」という風に扱われるスレなんだが、いや、意味分かる?例えば3の「二人組み作ってー」と上記23との決定的な差、とか。正直僕にはよく分からない。君も分からないかもしれない。分からない、としても。
それで、ネットは、「暴力」なのかね?
ニコニコ動画で友達を作ろうとした韓国人は、「かわいそう」だ。例えば、人気MAD動画の作者と直接コンタクトを取ってトロイを仕込むなりして彼なり彼女なりが韓国人であることを暴き動画を荒らす……のとは、少し意味が違う。意味は多少違うけど、もちろん、「かわいそう」だ。
この世界で、物理的距離は大きな意味を持たないし、意味を喪失する方向へ、この世界は動いている。例えば、2ちゃんねるでも「はてな」でもいい。ある瞬間に自分の隣にいた人間は、実世界における同じアパートの住民かもしれないし、地球の裏側に住む日本語が堪能な白人かもしれない。その二者に差がないことが、現代の得たものであり、しかし、例えばネットゲーにおけるタイムラグといった「距離」を、我々はまだ持っている。
例えばネットの匿名性を、負の観点から語る人間の多くは、充足している。そして、「充足している」という意味において。
現代用語の基礎知識にも引かれる、地上波テレビなんかよりずっと正確であるところの「はてなキーワード」によると「リア充」の意味は
実際の現実の生活(リアル生活)が充実している人間のこと。ここで言う充実とは、端的に表すなら「コンパ・サークル活動」である。
だそうなので、微妙に、違う。そしてその「微妙な差」が、全てだ。リアルが充実していて、それで?
だから彼らには、ネットが、(リアルにおける)ルーザーのルーザーによるルーザーのための空間になる姿と、もしくは、デキる男のライフハックの情報収集の場になる姿しか、想像できない。そして、ぶっちゃけた話、多分現代という時代において、その観点はたぶん間違ってはいない。間違っていないが、僕は、違う。質の違う利益を、享受し、もしくは、いつか享受したいと思っている。きみは、どうだい?
ネットと共に世界を彷徨いたい。と、かなり前から漠然と考えている。イメージ的には、太陽電池で動く手の平サイズのガジェットを携帯し、ゲリラと農民しかいない村からでも物理的距離のない世界にアクセスできる、ような。
ある瞬間、僕はリアルでは広い世界の断片に、そして、ネットでは。
総合的に見れば、現代のネットは「リアルにプラスアルファをもたらすもの」「リアルを補完するもの」であるに過ぎない、のかもしれない。だがそれでも、現代のネットは、例えば
「本当は起きてたりしてw」
「キャハハ」
でトラウマが入るスレを形成する程度には、至っている。
33 名前: 天の声(兵庫県)
>>23
おまえ・・・
23と33はアパートの隣人かもしれないし、同じ県の住人かもしれないし、北海道人と沖縄人かも、ひょっとしたらアメリカ在住日本人とロシア在住日本人かもしれない。そのことを「すばらしい」と思えないなら、「ネットの友達募集サイトでアフリカ人のメル友作りました」という台詞に対してしか「すばらしい」と思えないなら。
「充足」したリアルで、ただ君はアフリカ人の友達を作ることはできなくて、「補完」の役割を担うネットにそれを求めている。それは「間違っている」行為ではないのかもしれないが、少なくとも質が違うものを、君は求めていない。そして他者にも君と同じであることを求めるなら、それは、時計の針を止める行為であるに過ぎない。
メル友がアフリカ人かどうかなんて、究極的には、どうでもいい。そしてもちろん、君の本名も、ね。
ステレオタイプに言えば、共存の道を探ることだ。「リアルとネットの」であり、それ以外の意味ではない。「ネットでは、ネットにおけるあらゆる距離を超えて、全ての人間が仲良く手を繋ぎましょう」では、ない。
例えば、リアルにおける自分の地位をネットに持ち込もうとするものや、他者にリアルで「充足」することを求めるものや、あらゆる種類の「リアルにおける距離」がネットにおいても永遠であると信じているもの。そういうものを。或いは、そういうものから。
相当昔から海外のクラック〜Warez掲示板に普通に英語で出入りしていた、人も、いるだろう。そして現在は、(日本の漫画やアニメで)日本語を学んだ外人が日本語の漫画〜アニメ掲示板に普通に紛れ込んでいるケースも少なくない、らしい(多いのかどうかすら何とも言えない程度に紛れている)。
ネットと共に世界を彷徨いたい。と、かなり前から漠然と考えている。究極的には、言語とか民族とか、そういうものが、この世界における最後の問題点となるんだろう。島国言語空間に閉じこもる人間が、最後の抵抗者となるんだろう。僕も君も、そこまで生きてはいないのかもしれないけれど。
だが少なくとも、ネットは既に時計の針を多少なりとも進めてきた。例えば、現代のネットは、彼女を、外人が自分の顔と拙い日本語で自己紹介ビデオを投稿する動画共有サイトへ誘導する程度に発達していなかったけれど(だから彼女は「かわいそう」だ)。

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